神の視座

高校生が8つあるタイトルの1つを獲ったらしい。記者会見でも言葉を選びながら慎重に話す様子は待ったの効かない世界では必要な素養なのだろう。

たどり着いた今の地位に一喜一憂せず絶えず探求する姿を誰かが神の視座という言葉で表現していた。元々は宗教的な意味合いなのかもしれないが彼の見えているものはまさにそこからしか得られないものかもしれない。

自分が同じ年ごろにはどうだっただろう。妙に意識して騒いだり黙ったり。さわるものみな傷つけていたような気がする。近所の小学生が妙に懐いて学校の行き帰りに出会うとすぐくっついてきていたがたぶん必要以上に大人びて見せていたのが珍しかったのかもしれない。兄弟のいない私はその子には優しく接していたがそれ以外はツッパっていたと思う。親に対しても。

ちょっとづつ自分の思い通りに進められることが増えてきてそれなりに将来のことも考えるようになると普段の威勢はどこへやら不安と悲観でいっぱいになっていた。それでも定期試験をクリアしなければならないし生徒会の行事もこなさなければならないしいつも目の前の水たまりを飛び越えることだけに集中していたようだ。早く楽になりたい。余裕を持ちたい。たぶんそのころに欲しかったのが神の視座のようなものだったのかもしれない。人よりも少し高いところからゆとりある所作で周りを見渡す。そんなものにあこがれていたような気がする。今の彼が見ている景色はそのようなものだろうか。

歳をとった今見える世界はひょっとしたらそれに近いものかもしれないが見る側の心の若さが違う。もっと切羽詰まってもっとギラギラしてもっとまっすぐだったあのころとはもう内面が違うのだろう。たとえ見えてもそれほどうれしくもない。安堵もない。

まだ生きているしもうちょっと生きられそうなのであまり終わった人のような言葉は使わないようにしようと思ってるがついつい出てしまうのはまさにそれがまだまだな証なのかな。

藤井さんおめでとうございます。まずますご活躍されるでしょう。またそれを楽しみにさせていただきます。

私も新たな目標でも見つけて今一度心に若さを吹き付けてみたいと思いました。

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